年数だけは立派な吹奏楽部お手伝いの話

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曲を最後まで聴いてほしい!が、伝わりにくいワケ。

曲って小説と違って 最後がわからないままインプットが開始できてしまうもの。

最後、というのは内容の結末のことではなく、もっと物理的な話。

初めて接する作品について、 本なら両手に紙の重みが残っているうちには終わらないし、 絵画は同時に全てをさらけ出すので最後という概念がない。 (第一印象を深めていくというのは別)

曲は、発音が始まってから聞き入ることが出来るが、 いつ終わるかなんて予測ができない。 聞き手の気分や所要時間によって離れてしまうことが可能。 もちろん、小説などと一緒で、最後まで引き込まれるような 仕掛けは曲にだってあるけれど。

動画は、時間を見れば最後がわかるかな。 SNSは、ストーリーよりも断片的なものの集積ですね。

うまくお伝えしやすいように、A.リードのオセロを例にします。 例えば、コンクールで初めて聞いた人が、アレやりたい!と なったとします。ま、確かにかっこいいですよね。 4楽章で終われば笑

やがて、 ・実は5楽章がある ・楽章だけでなく部分的にカットされている(場合がある) という事実を知る。

その後、 ああ、ならばこの曲は最後まで演奏しないと 作り手の意図や思いはわからないかもしれないな。 となればよいのですが、

・5楽章は暗いからイヤ。 ・このアレンジでコンクールやりたい。 ・時間内からカットカット

となって、 晴れて”演奏用の”オセロが演奏されることが決まる。

もうこうなると本当につらい。

小説で置き換えてみてください。

帯でもCMでもいいんですが、かっこいい!と思ったところを 漁って、その前後だけ読んだらおしまい!

みたいなものだし、

オセロなんてもともとストーリーありきの曲なのに 5楽章をカットするってことは、 「さあいよいよ最終回!結末やいかに!?」 と触れ込んでおいて打ち切りで終了して幻になる。

くらいのインパクトです。

前の楽章の旋律が再現されていたり、 絶望の中にも最後のコードがメジャーになっていて、 わずかな希望や光を感じさせる仕掛けだったり、 そんな大切な場面を表現するきっかけを逃しているのですよ。 演奏者が。

この曲の最大の決め所は、4楽章の最後のドカーン! じゃなくて笑、 5楽章の最後の音に希望を感じさせるように鳴らせるか、 とすら思っています。 考えるだけでも集中力へとへとになるくらいの意識。

こんな人間に、 〇〇さん、オセロやりましょ! コンクールバージョンで! と言われても、 何がバージョンじゃ! ってなります笑

と、ここで気づく。

唐突に本題に戻ります。

曲を最後まで聴いてほしい!が、伝わりにくいワケ。

その曲を知っているかいないか、 本で言うと、最後のページがどこにあるのかが わかっているかどうか、 この差が大きいんですね。

さらに言うと、音楽は小説などと違って、 自分のペースで進められませんから、 知らない曲で、途中でへこたれたら終了。。 に、なります。

さらにさらに、 音楽って自由だよ? とか、 先入観なく聞いてほしい なんて言われてしまうと、

曲そのものへの全体的な興味 よりも 断片的な印象 のほうが優先されてしまう。

そんなことが起きてしまうんじゃないですかね。

まず演奏者が全体を知り、 作者の意図を模索し、 自分たちなりにどう演じようかを考え、 それをお客様に余すところなく伝えたい。

そう考えていけば フレーズの前後のつながり だったり 場面ごとの違い だったり そういったものを表現しようと 思うでしょうし、 その為に練習する。

という、 ごくごく自然な流れが出来てゆく はずなのですが、

初めから かっこよく切り貼りされた譜面をもらい それをかっこよく演奏してスッキリ! 初めて聞いた人もスッキリ笑 それに流れも何もありませんよね。。

これでよいんでしょうかね。

怖くないですか?

聴衆の中にはその曲に初めて出会う人も いるはずですよね。 そういう人に対して誠実でしょうか。 演奏者として。

演奏が上手いとか下手とか そんな上辺の話じゃないんです。 そもそも 音を奏でる機会をくれた 作曲者に失礼だと思うし、 結果的には、聴衆に対しても失礼 だと思うんです。

どんな演奏が、好きですか? どんな演奏が、したいですか?

ご参考になれば幸いです。