年数だけは立派な吹奏楽部お手伝いの話

地元中学吹奏楽部を10年以上お手伝いし何か残せればと思ったサイト

指導力とは。

持論。

(セーニョ) 相手の気持ちを上向け、次のアクションに導ける力のことです。

指導力が高い、強い、とは、 どんな状況や相手(例えば経験者も未経験者も)に対しても、 同様のことが出来ることです。(フィーネ)

これは、 年数だけは立派な吹奏楽部お手伝いの話、年数を稼いで 手に入れることが一つの持論です。

これがオンリーワンなのか、ワンオブゼムなのかは 分かりません。ただ、手に入れたもの。

いろんな切り口をかざしながら思考してきたように思います。 例えば、 ・教育と指導の違い ・生徒、顧問、保護者、外部講師それぞれの視点 ・強豪校と弱小校 ・ブラック部活とホワイト部活? ・小学校、中学校、高校、その他 ・経験者と未経験者 ・プロとアマチュア どの切り口であっても、当てはまる、 一つ見つけた、自分なりの結論。つまり持論。

・・・の、はずなんですけど。。

なぜ、こんなにも 指導とは、とか、指導力とは、〜べきである、 というような主張や議論がいつまでも起きているのか、 これが不思議だったんです。わりと最近まで。

一つ、わかったことがあります。

客観的な視点と、その後の解釈の拡大によって、 差異が生まれてくるということ。

客観的な視点というのは、

自分を良い方に導いてくれた人を指導者と呼ぶ。 という、教わる側の視点の場合のこと。

この人のどういう行為によって自分は救われたのか、 という点が固有にあって、 その先生との信頼関係が醸成されますから、 その先生の行為が指導につながると解釈するようになります。 解釈の拡大です。 これはごく自然な思考だと思います。

ただ、ここまでを含めて 指導とは〜べきであるというパッケージを守ろうとすると、 差異が生まれ、それをきっかけに議論になってしまうわけです。

例えば、 強豪校の指導者を持って、その人のやり方こそ指導、と主張し、 弱小校の指導者を持って、その人のやり方こそ指導、と主張すると 当然、方法論的な差異が出てくるわけです。

前者は、朝から晩までしごいてくれたおかげで今の私があるというし、 後者は、無理強いをされなかったから続けることができ上達のきっかけを得られた というかもしれない。

これではキリがありません。

昨今、国が子供達を守るために大ナタを奮い、皆にとって共通の解釈ができる 時間、を軸に部活動に制約を立てました。

これも、大切なように思います。 憎まれ役を承知で、一定の子供達のリスクを解消したことは確か。

学校ごとに個別対応ができれば理想ですが、それはそれで不公平という反論も ついて回るでしょうから。

さて、改めて、 指導力とは。

ダル・セーニョ ^^